アスペルガー症候群と経営者としての資質
僕には正式には診断されてはいないものの『アスペルガー症候群』の症状があります。よくインターネットで『アスペ』と若干のからかいも含めて紹介されていますが、最近、僕は『アスペ』というのは、とても面白い人間の進化の過程かとも考え始めるようになりました。『アスペ』にもいろいろありますが、僕には『諦めるという機能』が付いていません。![]()
家に帰ると、まずテーブルの上に財布の中のコインを500円玉、100円玉…と綺麗に並べる習慣も、体を洗うときに手足を六角柱に見たたて、6回ずつボディータオルで擦る習慣も、細かに順序が決まっていて、ひとつでも順序が狂えば(タオルで擦る回数が7回になったり)、もう一度最初から一連の動作をやり直します。
とても面倒な行動だと自分でも感じることはありますが、僕がこれら(これだけではありません)を諦めることはないし、私生活だけでなく、仕事においても決めたことは諦めずにするのは、『アスペ』の僕にとっては、当たり前を通り越して、諦めることがとても気持ちが悪いことで、諦められないのです。
僕がアスペルガー症候群(当時は高知能障害)と診断されたのは、小学校の頃の話です。
僕が教育委員会の人たちによって精神病院に連れて行かれたのは、小学校三年生の時のことです。それまでも与えられた宿題もせず、先生の言うことを全く聞かない子供でしたが、極め付けは給食の時間に起こったある事件でした。
その日は当時は凄く珍しかったメロンが給食で出ました。僕のクラスメイトは、メロンを見るととても喜んで、メロンが盛り付けられた籠の中から少しでも大きなメロンを貰おうと、列をなしていました。
僕はそんなクラスメイトとメロンを見ていると、とても幸せな気分になるのがわかりました。食事が始まると、メロンを真っ先に頬張る者、最後まで大切にメロンを残している者、様々な形でメロンを愛していることが見ている僕にもわかりました。
僕はそれでも1切れのメロンは1人の人間しか幸せにしていないなぁと気が付いたのです。
そこで僕はメロンで顔を洗ってみることにしました!
僕がメロンから滴るジュースを浴びながらメロンを食べる様を見たクラスメイトはみんな僕を見て大笑いしました。それを見ていた先生も大笑いしていました。1切れのメロンがたくさんの人を幸せにしていると思うと、僕はメロンはこうして食べなきゃなとさえ思いました。
それから数週間後、先生は教育委員会と相談して、僕を地元で一番大きな精神病院に検査に送ることにしたのでした。
その精神病院で脳波を調べたり、知能テストをしたり、ロールシャッハテストという影画のようなものを見て頭に閃くものを紐解くことで、僕は『高知能障害』だということがわかりました。当時の精神分析では、『アスペルガー症候群』というのはまだ認識すらされていなくて、とんでもなく頭が良いとだけがお医者さんから僕のお母さんに伝えられました。
それからの僕は小学校でも特別待遇を受けます…。
アスペルガー症候群というのは、何かが抜け落ちていることが多いのですが、僕の場合は忘れるという機能と諦めるという機能が抜け落ちています。
そういう僕の自己紹介をします。僕はフィジー共和国という国で日本人をはじめ、非英語圏の人たちへの教育関係のビジネスをしています。僕の会社は2017年2月に株式上場を果たしていて、なかなかに大きな会社になりました。
フィジーに会社を作ったのは、本当に邪なきっかけからです。
2002年にスピード違反を繰り返し、運転免許取り消し処分になりかけた僕は、どうにか諦めずに法律を調べて海外で運転免許証を取ることを思い付きました。当時は住民基本法と道路交通法がうまくくっついていなくて、詳しくは書くことは控えますが、ある特定の条件で海外に向かって、その上で運転免許証を取れば、問題なく日本で運転ができるという解決策です。ほとんどの国の大使館は短期の旅行では運転免許は取れませんでしたが、60カ国の大使館に電話で確認すると、旅行者でも運転免許証が取れる国がありました。それがたまたまフィジーだったのです。諦めずに調べてみて良かったです!
フィジーの運転免許センターで、たくさんの人たちに紛れて免許証申請を待っていると、その中の1人のおじさんから暇なら家に来ないかと誘われました。そうして彼の家で夕食をご馳走になり、その家に来ていた知らないおばさんに誘われて次の日はそのおばさんの家で昼食をご馳走になりました。そうやって僕は1週間、フィジーでほとんどお金を使わずに過ごすことができました。
日本での仕事で疲れ、あまり笑ってもいなかった僕は、帰りの飛行機の中でフィジーでは毎日笑って過ごしていたことに気が付きます。そこで僕はそのままフィジーに住めないものかを模索し出します。
すると、すごく良いことがわかりました。フィジーには小学校や中学校がたくさんあるのですが、数年前から深刻な少子化の影響で学校校舎の半分は使われなくなっていて、大学を卒業して教員の免許を持っていても学校にいる子供の数が少ないので、彼ら彼女らに先生の仕事はありませんでした。
そこで僕はフィジー政府と交渉して、使われなくなっている教室を安く借り上げて、仕事のない先生たちを雇用して語学学校を始めました。そうそう、フィジーの公用語は英語なのです。日本人の学生を中心に非英語圏の留学生たちに英語を教える学校を作ったのです。
こうして世界一授業料の安い語学学校はスタートしました。2004年のことです。フィジーの格安の授業料がウケて、学校は2年後には2校目を開設し、気が付けば世界で2番目に大きな語学学校になっていました。フィジー人たちの温かいホスピタリティーのおかげで学生たちの英語力も想像以上に伸びたことが良かったのだと思います。
2007年、日本で開催されたベンチャービジネスの大会でプレゼンする機会があって、そのプレゼンが終わると僕の周りにたくさんの投資家の人たちが、ぜひこの会社を増資して、ビジネスを拡大して、株式を上場させようということになりました。
ところが、学生寮を建設して、さあ!これからというときにリーマンショックに直面します。学生数は急激に落ち込み、会社の取締役会でも、社員の人員整理の話も出始めました。
でも、どうしても社員の首を切りたくなかった僕は、人件費の高い日本側の社員をフィジーに留学させることで、なんとか首を切ることを回避しました。彼らに景気が良くなるまでフィジーで無料で留学してもらい、景気が戻ったら日本に帰国して営業活動をしてもらうというプランです。
すると、どこかで話を聞き付けた某大手商社の人事部から問い合わせが入りました。
自分たちの会社では50名の内定斬りを準備しているが、内定斬りの代わりに僕の会社の社員同様、フィジーで1年間くらい英語を勉強させながら、待機させておきたいという話でした。
するとその会社との大きな商談が決まりました。大きな商談を社長自らが持って来たとなると、市況もあまり良くない中でしたが、社員たちも頑張り出しました。こうして、一度は身売りさえ考えた僕の会社はV字回復を果たしたのです。
ようやく仕事も落ち着くことができて、そろそろ彼女と結婚と考えていた矢先、お腹の張りが気になったので病院に行くと、僕は『悪性リンパ腫』と診断されました。しかもステージⅣです。癌のステージは10まであって4だと思っていたら、4までしかなくて4だったので完全な末期ガンでした。
僕は4ヶ月かけてR―CHOPという標準療法を行いました。入院中に独学で悪性リンパ腫に関わる論文を日本語・英語で読み漁った僕は『イブリモツマブ』という分子標的薬を自分にも試してもらえるように知り合いの薬剤師と医師にお願いして、なんとか説得し、病院で初めての『イブリモツマブ』被験者となりました。
同時に僕がこの世から、会社からいなくなっても会社に大きな影響が出ないように、リーマンショックで一度は保留した株式上場の準備を始めました。
そして遂に2016年2月、株式上場を果たすことができたのです。
生まれつき『諦めるという機能』が付いていないということは、僕にとってとても良かったと思います。僕に『諦めるという機能』が付いていたら、きっとどの問題に面したときも『諦めるという機能』を使ったことでしょう。
『アスペ』の僕も、健康な普通の人も、人間には『諦めるという機能』を稼働させるスイッチがあると思います。しかも、そのスイッチを入れるのは自分自身なのです。
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Free Bird Institute
CEO 谷口 浩
中国上海市の同済大学応用物理学部中退。ヨーロッパ・アジア諸国を放浪後、南太平洋のフィジー共和国で深刻化する少子化によって目立つようになった公立学校の空き教室・空き校舎を政府から安く借り受け、語学学校Free Bird Instituteを設立。独自の経営手腕でFBIを世界で2番目に大きな語学学校に育て17年に株式会社としてフィジー南太平洋証券取引所に上場させる。その実績がフィジー政府に買われ09年よりフィジー共和国の国立高校Ba Provincial Secondaryの理事長に就任。学校の再生に尽力する。著作に『FREE BIRD 自由と孤独』(中央公論新社)。『タニグチ式望遠鏡』の発明など光学研究でも高く評価されている。